With Nana Mouskouri

ギリシャ出身の歌手であるナナ・ムスクーリのギャラリーとして、彼女の生い立ちや当方が収集したレコード・CD等の紹介をいたします。こちらで紹介したレコード・CD等は当店にて常設しております。また、在庫のある一部レコード・CDについては店頭にて販売いたしております。

ご興味のある方は気軽にご来店下さい。

Introduction

はじめに

はじめに


ナナ・ムスクーリに初めて出会ったのは、沖縄に単身赴任をしていた1998年頃のことで、沖縄の中古CD販売店にてメガネを掛けた淑女が、当方に微笑みかけている写真が気に入って買ったものでした。音楽を聞いて、心安らぐものを感じ、当方の収集癖も手伝って、彼女のLP/EP/CDを集めては聴きまくっていくことになりました。

当方が、彼女に出会った1998年は、既にLP/EPレコードは廃盤となってしまっており、中古レコード店にてタマタマ出回っている在庫がある場合にしか、入手出来ない状況でした。レコード店のマスターに、彼女のレコードを集めていると告げると、よく笑われたものでした。JAZZやROCKの名盤であればいざ知らず、中古レコード界では彼女のレコードは、あまり評価される物ではありませんでした。

このため、仕事上の出張の度に全国の中古レコード店を、会社の仕事が早く終わった時には関東地区の中古レコード店を漁り歩く毎日が続くことになりました。また、海外より買付をしているレコード店のマスターに頼み込んで、彼女のレコードの買い付けをお願いして収集に当たりましたが、新たなレコードの入手は困難な状況となりました。

彼女の歌声は、当方のサラリーマン生活や私生活でのいろいろなストレスや悩みを癒してくれる“天使の歌声”でした。彼女の存在と歌声は、当方に生きる力を与えてくれるものでもありました。一人でも多くの方に、彼女の存在と彼女の歌を聴く機会に巡り会うことが出来、今を生きる力になればとの思いで、彼女について取り纏めてみることにしました。

ナナ・ムスクーリについての記載に当たっては、初期に発売されたLPレコードの解説を主に参考にしております。いろいろな方がいろいろな事を言っておられますので、当方の独断と偏見で纏めております。最近の情報については、彼女の手記(日本語訳は無し)やインター・ネットで紹介されておりますので、そちらを参考にして下さい。

当方が収集したLP/EP/CDについては、データ・ベースを御覧下さい。収集したレコード等やその存在が確認出来る資料をもとに作成しております。彼女の歌は、世界各国で作成・販売されておりますので、当方のデータ・ベースはほんの一部にすぎません。記載されていないLP/EP/CDを知りたい方は、インター・ネットで御探し下さい。

Biography of Nana Mouskouri

ナナ・ムスクーリの略歴

ナナ・ムスクーリの略歴


1934年10月13日(当初は1936年生まれと紹介されていたが、最近の記事では1934年生まれで紹介されている。)、クレタ島で生まれ、3歳の時に首都アテネへ移住、ナチス占領下で育ちました。(当初はギリシャの首都アテネの生まれと紹介されていたが、ここでは最近の紹介記事とした。)

1951年にアテネの音楽院コンセルバトワール・ヘレニークに入学し、クラシックの勉強をしていましたが、次第にポピュラーやジャズにも興味をもつようになり、たまたま仲間たちと作ったグループ≪ジ・アテニアンズ≫と共に、在学中にラジオに出演したことが学校に分かり退校になり、アテネの「ル・ザキ」という酒場でポピュラー歌手としての第一歩を踏み出しました。

1956年ラジオ・アテネでデビュー。その後1959年に、はじめてレコードの吹込みをした曲「アテネの白いバラ」(彼女の才能をいち早く認め後援を惜しまなかった恩師マノス・ハジダキスの作品)が大ヒットし、それからスターダムへの階段を着実に登ることになりました。

1960年9月、スペインのバルセロナで開かれた地中海歌謡祭にギリシャ代表として出場して、みごとに優勝の栄冠を獲得しました。また、ハリー・ベラフォンテもアテネのクラブで彼女の歌を聞いて感動し、ムスクーリの歌をアメリカの聴衆に聞かせようと心に決めたのでした。

1960年の暮よりはパリを活動の拠点とし、1962年にはルクセンブルクで、放送による最もポピュラーな歌手に与えられる“銀のライオン賞”を受賞し、同年12月にはジョルジュ・ブラッサンスの前座としてオランピア劇場に出演し、大成功を収めました。

1964年秋には、ハリー・ベラフォンテの招きでアメリカ公演(ニュー・イングランドのヴァーモント州にある学生の町ヴァーリントンでのコンサートがベラフォンテとの初の共演であり、またムスクーリのアメリカのステージへのデビューでした。)が実現し、これまた絶賛を博しました。

1967年3月にはACCディスク大賞を受賞、同年10月には大スターとしてオランピア劇場のステージに立ち、トップ・シンガーとなったムスクーリは、その後もロンドンのロイヤル・アルバート・ホールやニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開いたり、オランピア劇場でロング・ランを行ったり、世界を股にかけてめざましい活躍を続けました。

1971年だけをとっても、イギリス、オランダ、オーストラリアの諸国から、計5枚のゴールデン・レコードが贈られ、イギリスにおける同年度のアルバム・セールスでも、断然女性ヴォーカルのトップを占めました。

1974年8月には初来日し、中野サンプラザにて公演が行われました。 しかし、名声を得ても、彼女は大スターにありがちな気取りは無く、ステージでも眼鏡を外さず、ありのままの自分を見せ、ごく自然な態度で聴衆に接し、どんな曲でも彼女なりに歌う姿勢を変えようしませんでした。

淡々として気負いがなく、それでいて何か情感が伝わってくる彼女の歌声は、きっと聴く人の気持ちを和らげ、心に安らぎを与えてくれるでしょう。

Historical background and upbringing

ナナ・ムスクーリの生い立ちと時代背景について

ナナ・ムスクーリの生い立ちと時代背景について


1941年4月6日、当時ヨーロッパに君臨していたナチス・ドイツは、怒涛の勢いでギリシャへの侵攻を開始しました。その残虐さは今日も史実として伝えられており、当時6歳だった彼女は身をもって体験しました。彼女の背中には、ナチ兵士に打たれた傷が、未だ残っているそうです。

戦災は食糧不足を起こし、飢えの為に人々は次々に倒れ、その死体がゴロゴロ横たわっている道端で、ヒットラーの兵士たちがムシャムシャ食事をしている風景を、彼女は眼の当たりに見たのです。また、ナチに抵抗するレジスタンスの人達の集まりや、その犠牲者たちの粗末な葬儀にも何度か遭遇しております。

彼女は、「私はファシズムを心から憎みますし、それらの勢力にはどこまでも抵抗します。」とキッパリと言い切っています。

やがて平和がおとずれると、貧しかった彼女は、三つ年上の姉のジェニーと共に、音楽の道を選びました。その後、姉のジェニーは家庭生活を選びましたが、彼女は歌の道をひたすら進み、驚くべき熱意と忍耐力でグングンと上達し、1951年に家庭教師であった友人(家が貧しかったため、ある友人がロハで家庭教師を買って出て、歌のレッスンをつけてくれていた。)のすすめでアテネの音楽アカデミーに入学を許され、クラシック音楽家を目指して声楽に関する和声楽とピアノを専攻して7年間の研鑽を積みました。また、彼女の声帯の構造は、先天的な特質(通常はふたつある声帯の膜がひとつしかないことによる独特の音域の広さ)が備わっており、その声帯はハイ・ノートでしかビブラートしませんでした。

卒業試験を目前にしたある日、彼女は新鮮な音楽に魅せられることになります。それはジャズ音楽でした。この出会いが、彼女の運命を180度変えてしまうことになりました。アテネのラジオ局で、小編成バンドをバックにポピュラー・ソングを歌った彼女に、学校側は最終テストへの門を閉ざしてしまいました。このため、彼女はアテネのクラブで、オーケストラ付きの歌手となりました。

クラブで歌っている彼女の才能を見抜いたのは、ギリシャの作曲家マノス・ハジダキスでした。1960年度のアカデミー主題曲賞を、≪日曜日はダメよ≫で獲得したこの作曲家は、1958年以降、彼女のために、進んで作品を提供してくれたのでした。

そして2年後の1960年9月、スペインのバルセロナで開かれた地中海音楽祭にギリシャ代表として参加した彼女は、マノス・ハジダキスの作品≪アテネの白いバラ≫を歌い、見事優勝を果たしました。俄かに脚光を浴びた彼女に、世界各国から引合いが続いたそうですが、彼女のバックを務めるジ・アテニアンズの仲間たちと離れたくないとのことで、どことも契約をしなかったそうです。しかしこの年、アテネにやって来た、アメリカの人気歌手、ハリー・ベラフォンテの知遇を得たこと、フランスで彼女のレコードを聴いたフランス・フィリップス社のルイ・アザンより、移住の進めもあり、意を決してパリ入りをします。オルリー空港に降り立った彼女は、スターという印象とはほど遠く、化粧もせずにギリシャの農民服をまとい、あのトレード・マークの眼鏡を掛けていました。

1961年1月、民俗楽器ブズーキの名手でもあるジョルジュ・ペツィラスと結婚。彼とは、まだギリシャに居た無名時代からの音楽仲間であり、ジ・アテニアンズというグループをひきいて、彼女の伴奏を務め、陰に陽にその成功には計り知れない寄与をして来ましたが、1975年に離婚しております。おしどり夫婦といわれた二人が別れるのは、よくよくのことと思われます。彼女にとっても、口には出せない苦しみがあり、思い切った決心が必要だったと推測されます。

夫君と別れて、独自の道を歩み出してからは、彼女の美しくて清らかな歌声に、これまでにはなかった陰影のようなものが加わり、しみじみとした人生の味をかもし出しています。

Trajectory of Nana Mouskouri

ナナ・ムスクーリの軌跡

ナナ・ムスクーリの軌跡


彼女は母国のギリシャ語以外に、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語等で歌うことが出来ましたので、それは同時に国際スターへの道に繋がりました。

1961年、ドイツで“アテネの白いバラ”をレコーディング、当時としては驚異的な120万枚を売上げ、ゴールド・ディスクを贈られており、祖国ギリシャでも同じ賞を得ています。

1962年の春、アメリカのジャズ界で第一人者といわれる、クィンシー・ジョーンズの監修のもとに、初のアルバムを出しました。この12月、フランス芸能人のメッカ、パリのオランピア劇場に初出演し大成功を収めています。

1963年には「ユニセフ(国際児童基金)」のために、ユル・ブリンナーが委員長になって、難民救済資金集めの国連レコード“オール・スター・フェスティバル”が制作され、ナット・キング・コール、ビング・クロスビー、ルイ・アームストロング、エディット・ピアフ、モーリス・シュバリエといった、第一線のスター達と共に、彼女は“シメロニ(夜明け)”(マノス・ハジダキス作)を、レコーディングしています。

この結果、彼女の名は世界中に知られるようになり、映画俳優ケーリ・グランドは、アメリカでのTV シリーズ出演を申し入れ、ダニー・ケイは彼のショーに、ゲスト出演を要請しました。1961年アテネで会ったハリー・ベラフォンテは、3年後の1964年、彼女をアメリカに招き、ヴァーモント大学でのキャンパス・コンサートを初め、全米各地のコンサート・ツアーを行っています。

1965年夏カナダで、ナナ、ハリー、マノスの三者が会合、ギリシャの歌のレコーディングの話がまとまり、翌1966年にRCAから、マノス・ハジダキスの作品を中心に、ふたりの共演アルバムが発売されました。

1967年には再びオランピア劇場で公演、1968年9月にイギリスに渡って、TVショーに6本出演、10月にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールに出演、8千人の聴衆を魅了し、以降、毎年イギリスへの演奏旅行を継続、この地での彼女の人気を不動のものにしています。

1969年1月、三度オランピア劇場に出演、3時間に亘るコンサートに成功、3月18日にはニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開催し、これまた大成功をおさめ、1970年にフランス国内演奏旅行中に、1969年度最高ポピュラー歌手として、≪ゴールド・ノート賞≫を受け、オランダでも大賞を贈られています。

1971年には、オーストラリア、ドイツ、イギリス、それにオランダで2つ、合計5つのゴールド・ディスクが彼女に贈られました。同年秋、5度目のオランピア劇場出演では、3週間にわたって延べ45,000人の観客を動員したと伝えられています。

1972年、オーストリアで2度目のゴールド・ディスク、オランダではプラチナ・ディスク、1973年にはニュージーランドからゴールド・ディスク、フランスからもゴールド・ディスクを受けました。

そして1974年には、オーストラリア経由で、初来日公演を果たしました。

Nana Mouskouri for Japan tour

ナナ・ムスクーリの日本公演について

ナナ・ムスクーリの日本公演について


1972年1月、NHK TVで放映された≪ナナ・ムスクーリ・ショウ≫(ゲストはハリー・ベラフォンテ)にて、初めて日本で紹介されました。

1974年7月22・23日、初来日公演が東京中野のサン・プラザ・ホールで開かれました。入場券は3週間前に売り切れ、両日共に両袖に立見まで出て大盛況でした。初公演のステージでは、気の合ったアテニアンズがバックなだけに、歌も演奏も充実し、ユーモラスなメンバーとのジョークを交え、ギリシャ語の歌の時には必ず大意を説明するなど、いきとどいたサービスでした。また、万雷の拍手に応えて10回近いカーテン・コールがあったそうです。ただ、残念なことに、日本公演はアトにもサキにも、この2回だけでした。

8月4日(日)午後8時45分のNHK総合TVの“ビッグ・ショー”にて、“アテネの白いバラ”をはじめ、日本語で“シェルブールの雨傘”など10曲を歌いました。(7月12日NHK放送センターCT・101スタジオでビデオとりが行われました。)

7月23日の午後1時から六本木のTSK・CCCターミナルで記者会見が行われました。

“あなたはトレード・マークみたいに、四角い眼鏡をかけていますが、ステージでもはずさないのはナゼですか?”『私は12,3歳のころから、メガネをかけていますので、メガネは完全に私の一部になっています。コンタクト・レンズをすすめて下さる方もいますが、どうも私は好きになれません。だからといって、ステージで眼鏡をはずしたら、私は何もわからず、お客様に失礼があるかも知れません。それにお客様は、私のメガネに慣れてしまったようで、あまり気にかけていらっしゃいません。』

“ミシェル・ルグランさんについて一言?”『とてもすばらしい人です。私もその美しい作品に心を打たれて、いつも何曲か歌わせて頂いています。』

“ミキス・テオドラキスさんは、今は何処に?”『私がこの旅行に出る前までは、パリにいらっしゃいました。』

ところでメガネが再三話題になったので、彼女が気軽に“とってみましょうか?”と、メガネメをはずした途端、カメラ・マンがドット前に殺到し、フラッシュの洪水になってしまいました。

Nana Mouskouri sayings

ナナ・ムスクーリ語録

ナナ・ムスクーリ語録


彼女が折にふれて発言した談話より・・・・

『私はうたを歌い続けます、それは私にとって全てなのです。』

『私は、スターになろうとは夢にも思ったことはありません。私の内なる力が働き、歌手の道を歩むことになりました。出来ることなら、少しでも永く生き、少しでも永く歌い続けたいと思います。』

『私は幼いころ無口で、あまりものを言いたがらない子でした。私が自己を表現し、主張し、自らの意志を伝達出来るようになったのは、歌うことが出来るようになってからです。私が生きて行くということは、歌うということです。』

『私はステージに出ようとして、間違ったドアを開けそうな気がしてならないのです。突如として、ドアが左手にあり、どうしても右手のドアからステージに入ることが出来ません。幕が開くまで私の苦悩が続き、劇場のステージは強大な独立国のように、私の前に立ちはだかっているのです。そしてどうにもならない、セッパ詰まった瞬間に、私は歌い初めているのです。』

『私の責任は極めて重大です。お客様は私の歌を聴き、私の歌を愛し、私に愛を与えて下さいます。だからお客様をガッカリさせることは出来ません。私にそそがれた愛に、充分報いることが、私はお客様に出来るだけの愛を捧げます。それがお客様と私との、ふれあいなのです。』

『私はまるで吸い取り紙みたいな人間です。歌に関する限り、なんでもかんでも吸収してしまうのです。』

『私はファシズムを、心の底から憎みます。私は暴力にはどこまでも、抵抗を続けます。』

彼女自身の手記より・・・・
「15歳の頃の或る日、父が自分で作ったラジオを私にプレゼントしてくれました。私は、昼も夜もラジオの前から離れませんでした。アメリカのディスク・ジョッキーが、ジャズのレコードを流していたからです。私はこうして放送で聴いた全ての歌を覚えて、それをノートに書き留めました。ビリー・ホリディ、ディーク・エリントン、その他の偉大なアーティスト達が私の心をとりこにしました。」(オペラ歌手を目指していた彼女が、一台のラジオによってジャズに目覚め、ついにはグループを結成することになります。)

《私のアテネ》オリジナル・ジャケットより・・・・
「ここに収められているかずかずの曲は、私の美しい国、ギリシャの各地に伝わるメロディーの中から選びました。私の国ギリシャ、私はその素朴さ、詩情、そして色彩が好きなのです。私は、幼いころ、母がうたうのを聞いて、これらの歌を覚えました。メロディーを口ずさむ母の細い声が、今でも耳の奥に残っています。私がうたうことを望んでいた彼女へ、私はこのアルバムを捧げます。私の母親、私の愛するママへ・・・。」

Lu compliment Nana Mouskouri

ナナ・ムスクーリ賛辞禄

ナナ・ムスクーリ賛辞禄


フランスの女性週刊誌“マリー・クレール”の掲載記事より。

《スペイン国王ファン・カルロスが、愛用のメルセデス・ベンツのオープンカーのなかに彼女のレコードを一杯積んでいるとのこと。》

《アメリカ合衆国大統領であった故ジョン・F・ケネディが弟のロバートと共に、彼女をホワイト・ハウスの晩餐に招待し、彼女の歌に耳を傾けたとのこと。》

《デンマークでは、アンヌ・マリー王女とギリシャ国王コンスタンチンの婚約式に招かれ歌ったとのこと。》

《カナダのオタワでは、議会の大統領特別席で歌い、ケベックではトリュドー首相が最前列で聴き入っていたとのこと。》

《飛行士ジョン・グレンは、『ボクは宇宙の声を聞いてきました。だがそれにもまして、あなたの声は、この世で最も美しい。』と賛辞を呈したとのこと。》

《クラシック音楽会で最大の興行主といわれ、世界に君臨するソル・ヒューロックは、アルトゥーロ・トスカニーニ、ユディー・メニューヒン、ヤッシャ・ハイフェッツ、マーゴット・フォンテーン等、超一流のアーティストを抱えていることで、その名を知られた人ですが、その彼がナナのために、閉鎖的なブロードウェイの劇場で彼女に脚光を浴びせたとのこと。》

《フランスのヴァリ・ジスカール・ディスタン大統領が、『あなたが歌う“桜んぼの実る頃”この古いシャンソンを、私は忘れることが出来ないのです。』と、言っているとのこと。》

ル・フィガロ紙のポール・カリエールは、彼女の声の柔軟性と清澄度、そして的確な表現力、それにもまして、彼女のしとやかな人柄は美徳であると讃えています。

ニューヨーク・タイムズは、カーネギー・ホールのデビュー・コンサートで、満員の客を集める歌手は、そうザラにはいないが、その中でもナナ・ムスクーリは、優れた存在である、と書いています。

パリ・マッチ誌のニコラス・ド・ラボーディは、まったく飾り気なしのこの女性こそ、最も偉大な歌のレディーである。歌に関する彼女のテクニックは、見事のひと言につきる。さぁ彼女に拍手をおくろう、と書いています。

レットル・フランソワーズ誌のルネ・ブールディールは、彼女の声はまぎれもなく、世界で最も正確な音質であり、その完璧な発声法は聴く人々の胸を打つ魅力そのものであると、誉めちぎっています。

Nana Mouskouri and glasses

ナナ・ムスクーリとメガネ

ナナ・ムスクーリとメガネ


これまでの歌い手達とは違い、彼女はステージでも眼鏡を外さない独特のスタイル(何も奇をてらったわけでなく、『日常生活でもそうしているのですから、ステージでも同様に、自然のままでなくてはならないと思います。』と彼女は言います。)も、話題を賑わすに充分でしたが、何よりもその美しい声と素朴な中にも情感のこもった演唱が、パリっ子達の心を打たずにおきませんでした。

彼女のトレード・マークはメガネですが、いわゆる“メガネ美人”で欧米から日本のメガネ屋さんまでCMに使おうと、あの手この手で彼女にアタックしていたようですが、実現しませんでした。

彼女のデビューの際のエピソードとして、デビュー・レコードのジャケットには彼女の写真はのっていませんでした。その理由について製作者は、『メガネをかけている女性の写真では、レコードの売れ行きに響くのでねぇ。』という意見を述べています。

彼女は、実生活でもステージでも堂々とメガネをかけて押し通しています。彼女の努力と実力が堂々と透き通ったヴォーカルと共に、彼女のチャーム・ポイントのひとつにメガネがなっています。『メガネはファッションの必需品、ステージでメガネは失礼なんてとんでもない。』とのことで、オペラに出演した時にもメガネをとらなかったそうです。

Introduction song to sing

ナナ・ムスクーリが歌う曲目紹介

ナナ・ムスクーリが歌う曲目紹介


彼女は、昔の歌を、そのままの形で復活させたのではなく、現代人にアピールするモダンなセンスで消化して、新たな息吹きを与えました。彼女のギリシャ語は当然としても、その他にフランス語、ドイツ語、スペイン語、英語に堪能です。特に英語は完璧で、余り人に知られていないウエールズ地方の古謡や、アイルランドの古い民謡を集めて“イギリス民謡名唱集”というレコードを出している程です。

彼女の特徴は、スケールの大きな歌唱力、豊かな声量、青春時代にオペラ歌手を目指してクラシカルの基礎勉強を学んで出来上がった格調高い音楽性です。天性である美しい歌声、レパートリーの広さ、各国語を自由に使い分けて、それぞれの歌の内容を深く理解してから発表する慎重さと誠実な姿勢である。そして、ステージ・マナーの良さは、彼女がインターナショナルな教養を備え、観客を包み込む人柄の良さからであり、魅力的なレディだといえます。

“日曜日はダメよ”;1960年制作の同名映画の主題曲で、作詞・作曲のマノス・ハジダキスには、外国映画としては、初のアカデミー主題曲賞がおくられています。彼女のあざやかな演唱が、フランスへのデビュー・ヒットとなりました。

“オーバー・アンド・オーバー”;元々は古いギリシャの歌曲で、夫君ジョルジュ・ペツィラスの編曲により、美しく親しみやすいメロディを持った、ワルツ調の愛の歌です。《私は何度も貴方の名前をささやく、貴方に口づけをする。私にはわかっているの、貴方が私を愛しているのが・・・。愛は永遠のものなのよ、私はいつまでも貴方の胸に抱かれていたい・・・。》彼女の演唱が、1969年イギリスのヒット・パレードを飾りました。

“遥かなる銀河へ”;マノス・ハジダキスの作品で、ギリシャ・カラーたっぷりのナンバーです。射手座はこう、双子座はこんな、そして私達はみんな星の子供、といったお伽話ふうの歌詞がついています。

“ギリシャの海”;彼女の大恩人であるギリシャの作曲家マノス・ハジダキスの作品です。《静かではかりしれない海よ。おまえのそばにいると私は安心していられるの。お前が乾ききってしまうまで、私は愛し続けていたい。》 彼女は、深く静かな海に向かって語りかける乙女の想いを、やさしくうたいあげています。

“ク・ク・ル・ク・ク・パロマ”;いなくなった恋人をしたって、昼も夜も泣き暮らし、食事ものどを通らずに、ついに死んでしまった一人の男の魂が、今は一羽の鳩になり、彼女の帰りを待ちながら、ククルクク・・・と鳴いているという、哀れな物語をつづったメキシコの歌。彼女は英語訳により、しみじみと歌います。(「ククルクク」は鳩の鳴き声で、「パロマ」は鳩の意味です。)

“アテネの白いバラ”;彼女の最初の大ヒットとなった記念すべき1曲です。同名のギリシャ映画の主題曲で、作者はマノス・ハジダキスで彼女のために1959年に書いた曲です。1960年9月、スペインのバルセロナで開かれた地中海音楽祭では、この曲を歌って優勝の栄冠をかちとり、彼女のフランス移住でフランスでも大ヒット、ついでドイツではミリオン・セラーとなりました。《白いバラの花がふたたび咲くときまで、私を一人にしておいて欲しいの。夏が過ぎ、やがて別れなければならない時がやって来ます。けれどもバラが咲きほこる春には、ふたたび私の心にも春を届けてほしいの・・・。》彼女の明るく心のやすまるヴォーカルが印象的です。

“エリーナ”;題は英語のアイリーンにあたる娘の名。ジョージ・ペトシラス作による郷土色豊かなギリシャの歌で、彼女の古くからの十八番です。エリーナはナイーヴな女の子。いつもオレンジの木陰でかわいい男の子を待っています。母親は心配して『そんなことばかりしていたら売れ残りますよ。』と娘をさとします。村の娘と母親のやりとりが目に浮かぶような、彼女のキュートでチャーミングな歌声に、若者達と遊びまわっている娘の姿がユーモラスに歌われています。

“王様は太鼓を打てと命令した”;エディット・ピアフをはじめ、多くの歌手がとりあげている、名高いフランス民謡です。王様が侯爵に元師の位を与えて、彼の美しい夫人を自分のものにします。すると嫉妬したお妃が、彼女に花束を贈り、その香りで殺してしまう…というお話で、腐敗した宮廷生活に対する、民衆のするどい風刺精神が伺えます。彼女は、夫君ジョルジュ・ペツィラスのリズミカルなアレンジによってこれを歌い、現代的な感覚にあふれた好唱を聞かせてくれます。

“アメージング・グレース”;(至上の愛)は、アメリカのフォーク・ソングでありジュディ・コリンズがヒットさせたのち、多くの歌い手にとりあげられるようになった、トラディショナルな美しい讃美歌。《神の恩寵》をつつましやかに歌い上げ、聴く人の胸にしみこむように、無伴奏で彼女の歌だけがそこにあります。

“アルハンブラの想い出”;《近代ギターの父》と言われるフランシスコ・タルレガの作曲で、スペインの古都グラナダに、サラセン文明の粋を集めて建設されたアンハンブラ宮殿の情景を、ギターを効果的に使用して幻想的に描いた名曲。彼女は、歌詞の無いヴォーカルで格調高く、魅力的に歌い上げています。

“アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ”;破壊されていく自然の姿を、象徴的な詩につづったこの曲を、彼女はザ・キングス・シンガーズをバックに無伴奏で歌い、私達の心に限りない共感を呼び起こします。

“谷間に三つの鐘が鳴る”;シャンソンのスタンダードであり、誕生、結婚、葬礼の3つの鐘に託して、ジミー・ブラウンという男の一生を歌ったバラッド。原曲はシャンソンで1945年に発表され、1948年にエディット・ピアフによりヒットした曲です。彼女は、かつてのピアフ盤に劣らぬ名唱で歌っています。

“桜んぼの実る頃”;パリ・コミューンの指導者ジャン・バチスト・クレマンが、1866年に亡命先のベルギーで発表した古典曲で、桜んぼが実る頃の恋を歌ったものです。夫君ジョルジュ・ペツィラスのアレンジによって、見事にリバイバルされ、彼女ならではの名唱が味わえます。

“サインはピース”;カナダのソング・ライターであるジーン・マクレランの作詞・作曲です。《洪水を静め、海を静めた人(イエス・キリスト)の手にあなたの手をゆだねなさい。そして、あなた自身をみつめ、他人を見直しなさい・・・》彼女は、快いフィーリングで神への信仰を説きます。

“マンマ”;トニー・ハザードの作詞・作曲であり、戦争によるユダヤ人母子の悲劇は、強制収容所での幼い少年にはつらい体験であった。自由の尊さを、母の死に直面した少年の悲しみをとおして彼女がドラマテックに深い憂いを込めて訴え、聴く者の涙をさそいます。

“ロック・ロモンド”;スコットランドの民謡であり、平原地帯ローランドに点在する大小の湖水のなかにロモンド湖がある。美しく落ち着いた故郷ロモンド湖を忍び、《苦しいよ・・・緑の木陰、あの草原を渡るそよ風も、さわやかな故郷へ早く帰りたい・・》といった内容である。彼女の叙情味あふれる歌は共感を呼ぶだろう。

“太陽とそよ風の下で”;ユーゴスラヴィアの歌で、《風車が回るまでに帰ってくると云い残して、貴方が去って行ったのは秋でした。今朝あなたの友人があなたの指輪を届けてくれました。それで私は全てを悟りました・・・・。》戦場へ去ったまま帰らぬ恋人を思いながら歌う女心に、一層の哀感を添えます。

“緑の輝き”;彼女の大ヒット・ナンバーで、《太陽よ、照り輝け。太陽よ、地上を照らしておくれ、そして風や稲妻や雨を追い払い、私の人生を歌っておくれ。さあ太陽よ、照り輝け・・・。》軽快なフィーリングで歌います。

“アテネのおもちゃ”;可愛く、やさしく語りかけるように歌うメルヘンの世界。《安楽椅子、揺れる木馬、おもちゃの熊、空飛ぶ円盤。がらくたなど・・・。でもここには忘れかけていたほこりだらけの私の世界がある。おもちゃたちよ、もう一度、私の人生を語っておくれ・・・。》現代の社会に欠けているものをやさしく教えてくれます。

“太陽のように”;静かな美しいフランスのラブ・ソングです。《太陽のように、輝く光のように、彼はやって来ます・・・。私は彼の後をどこまでもついて行きます。だって私に勇気を与えてくれるのは彼だけなのですもの・・・。》彼女のさわやかな美しい声にぴったりの曲です。

Manos and Mikisu

マノス・ハジダキスとミキス・テオドラキス

マノス・ハジダキスとミキス・テオドラキス


《マノス・ハジダキス》

ギリシャの音楽大学で教鞭をとるかたわら、1950年代から映画音楽を手掛け、数多くのポピュラー・ソングを作曲して、ギリシャ第一の人気作曲家である。その名が世界に知られたのは、「日曜はダメよ」が、1960年度のアカデミー主題歌賞を受賞してからであり、彼女と知り合ったのは1958年のことでした。以降、彼女の才能をいちはやく認め、幾つもの作品を提供して、後援を惜しみませんでした。

《ミキス・テオドラキス》
アテネに生まれ、王立芸術学校に学んだのち、バイオリニストとしてデビュー。ロイヤル・フィルやフィルハーモニア・オーケストラを経て、アテネ交響楽団のコンサート・マスターをつとめました。1955年から映画音楽を書き、「その男ゾルバ」「魚が出てきた日」「Z」などの作品を世に送っています。ギリシャの軍事政権から、左翼的な行動をマークされ、1962年以来、2度も投獄されましたが、国外に身をかくして創作活動をつづけ、1974年の政変によって、母国の土を踏みました。

Nana Mouskouri DateBase


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